相対性理論の歴史とは!?

アインシュタイン

本日は、その相対性理論がどうやって発見され..それからどんなふうに、「新たな物理学」が発展したのでしょうか・・・・・・近代から現代の科学史なども話題に交えながら、皆さんと共に見ていこうと思います。

最初に相対性理論の発見者とされるアインシュタインその活躍時代たる1900年頃をみていきたいと思います!
 

古典物理学最後の「大物」現る!

 
1897年、ドイツの自由主義的なユダヤ人家庭に..長男とされて誕生した、アルベルト・アインシュタイン。

5歳の時に、父親から、得た、方位磁針を機会に、自然界の法則に関しまして、興味を持ち、10歳に達する頃には数学に興味を持ち、幾何学に加えて微積分などを独学で学んでいるのです。

16歳となった、アインシュタインについては、スイスの名門大学とされる..チューリッヒ連邦工科大学を受験しますが、不合格となり、総合成績が規定より下だったのですが、数学と物理では最高の点数を取っていたことから、1年間別の学校で点数がない分の授業を受ける事を前提条件として..翌年の入学資格を手に入れることになります。

実のところ、それより前に、通っていた全寮制の高校については、規則が厳しく..アインシュタインには馴染めなかったわけですが、大学入学前に通ったこの学校というのは、自由度が高めであって、次シーズン行なわれた、中等教育終了試験に無事合格したのです。

更に、この学校では、もう1つ、アインシュタインに、非常に大きい転機がもたらされる出来事があったのです。

それは、「昼寝中に自分が光になって別の光の後を追う夢を見た」とされる..一見すると、本当にささいな出来事にしか過ぎないのですが、なんとこの夢をヒントとし、アインシュタインは、10年後の1905年に「特殊相対性理論」を発表、加えて1916年に「一般相対性理論」を発表し..「古典論」である量子力学以前の物理学に伴う..「最後の大物」という相対性理論の完成に至ることになります。
 

相対性理論とは?

 
相対性理論とは、「光の速さは不変である」とされる原則と、それについて、物理法則が決まるとされる理論になります。

この「光の速さは不変」とされるのは、静止している物体に対しても運動している物体に対しても、その位置や速さが、あらゆる物体に対し「変わらない」絶対的なものだといった意味を持ちます。

そして、その光速において、物理法則が「相対的」に決定されることから..この理論に関しては「相対性理論」と称されていることになります。

このことから、相対性理論が明確にする以前は、一律に流れるものだとされていた「時間」や、何らかの状態を変えたり、形状そのものを破壊するというような力を加えなくては..不変であるとされていた「大きさ」など、いくつかの物理的な概念が、物体が「運動する」こと、要するに、その位置が動くことにより、変わることが明かされたのです。

現代においては、相対性理論というのは、物理学の常識となっており、量子力学も含めた物理学研究の基礎となっているのです。

ですが、アインシュタインユダヤ人並びに平和主義者であることにより..この科学的な発見については、政治の渦へと巻き込まれていきます。
 

「反相対性理論」

 
相対性理論の発見については、物理学界ばかりか..これ以外の自然科学分野であるとか一般社会でも大きな話題となったのです。

具体的に、これまでの理論のみでは、語れない物理現象の..一貫した原理においての説明というのは、待ち望まれたものでした。

ですが、相対性理論の認識が、一般大衆の感覚において、おいそれとは、飲み込めないものだというのも事実だったのです。

しかも、アインシュタインユダヤ人だったことや..原則として、戦争に反対する立場とされていたというような背景から..第一次世界大戦に敗戦した後のドイツで反相対性理論キャンペーンが実施されたり、物理学者の中でも、反ユダヤ主義の立場に立つ一派については..相対性理論についての業績をアインシュタインのものと容認せずに..その業績を既に死亡している他の物理学者のものだと述べたり..アインシュタインをユダヤ的と批判・攻撃するなどすることで、結論としてアインシュタインは相対性理論に伴うノーベル物理学賞の受賞を阻まれてしまったのです。

1921年にアインシュタインに授与されたノーベル物理学賞というのは..「光電効果」とされる光の性質に関する発見に対してのもので、実質的には、アインシュタインは、相対性理論においての..その生涯でノーベル賞を受賞することはありませんでした。

ですが、反相対性理論キャンペーンの方も、ナチス・ドイツと同時進行で勢力を増したにも関わらず、最終的には、第二次世界大戦での敗北と政権崩壊から..共倒れかのような感じで、そのまま力を失くし、忘れ去られたというわけです。
 

相対性理論、立証への道

 
政治的・差別的な運動が原因となって、攻撃を受けながらも..物理学界においては、相対性理論の立証が進められ続けていました。

その何にも増して、効果的な方法とし考えられたというのは、1916年発表の一般相対性理論で予言されていた中の..「光が星の重力が起因して曲がる」とされる..その当時は依然として観測されていない現象を発見することになります。

しかしながら、アインシュタインについては、その次の年だという1917年に..自宅療養が求められる程の肝臓の病になってしまったのです。

アメリカイギリスの物理学者達天体観測を始めて..星の重力から、光の軌道が変化する様子を探そうと努め、その観測そのものは、おいそれとは成功しなかったのですが、敵国だったドイツで発見された相対性理論が、アメリカやイギリスで、英語に訳されて紹介され、理論の立証に向けての、以前にも増して、大規模な観測が計画されたのです。

その期間中に、病気から改善したアインシュタインについては..1921年からアメリカやイギリス、フランスや日本を歴訪して、さらに1923年に、ノーベル賞受賞後の講演をするため..スウェーデンを、エルサレムやスペインの後に出向いています。

更に1932年に、アメリカ訪問ができるよう、ドイツを出発した彼は、続けて、アメリカに移住して、国籍も取得しているのです。

更に1935年には、プリンストン高等学術研究所の教授とされて..量子力学相対性理論の研究を発展させていき、現在も研究途上とされる「量子力学と相対性理論の間の矛盾」における研究を..他の物理学者との連名で発表しています。

更に、アメリカ海軍の兵器改良に顧問となって関わっていて、ルーズベルト大統領に原子力の軍事利用、要するに「原子爆弾」の実現ができることに対し、想定した手紙に署名を残しているのです。

とは言いつつも、アインシュタイン本人は根っからの平和主義者とされる性質を変えることなく、日本への原爆投下の際には、尋常でないショックを受け..それ以降は、核兵器根絶・平和に貢献する活動に取り組んでいます。
 

相対性理論の現代への応用

 
それでは、それ以降も、相対性理論というのは、今の時代に及ぶまで、かなりの物理学の発展の支えになってきたのです。

その中でも「アインシュタイン方程式」とされる..一般相対性理論の基本方程式の存在というのは、数え切れないほどの「解」、あるいはその「解」が示す物理現象の存在を予言して、新しい発見へと導き出してきたのです。

一つの例として、ブラックホールもその1つでありますので、ビックバン理論その解から導かれたものとなります。

アインシュタインについては、初期の頃「宇宙の大きさというのは不変である」と考えていたことから、アインシュタイン方程式というのは最初は..「宇宙を静止状態にされている何かしらのエネルギー」を表した「宇宙項」というような項目を含んでいましたが、それに関しては「我が人生最大の誤り」アインシュタイン自らが後に撤回してしまいます。

ですが、それとは逆に、現時点での宇宙物理学に関しては、宇宙の総質量というのは..アインシュタイン方程式に伴う計算より極めて大きいと推測された上で、その質量を説明することができる未知のエネルギーの存在を示す..「新たな宇宙項」を定めた計算がたくさん行われているのです。

さらには、その未知のエネルギーとされる「ダークエネルギー」や..未知の物質と想定される「ダークマター」等の存在が推測された上で、更に宇宙が誕生してから今日までが、約138億年であることや..宇宙が数え切れない程の銀河やその集合と空洞の領域の層であるということ、そのような人類が現実的に見たことがあるはずもない事を..ですが、十中八九は、事実だろうと「計算」することが可能だ、まさにそれが「相対性理論」物理学史を象徴的に示す発見であって、アインシュタイン「現代物理学の父」と称される理由になります。

アインシュタインについては、その人生においても名前が備わっている「神」とは異なり..自然の法則の秩序だった美しさを信奉していたと言われていて、彼の名前を付けられた「アインシュタイン方程式」というのは..あたかも彼の意思を継ぐかのごとく今、あるいはほとんどの場合未来でも、まだ人の手が至ることが容易ではない宇宙の果てまで、この世界の法則を解明しているはずなのです。