どのような人でも1回くらいは聞いたときがある虫の声・・・この虫のさえずりを「声」という形で伝わるというのは「日本人とポリネシア人だけ」だと言われています。
どういう理由から、他の国の人は「声」として伝わらないのでしょうか?
逆に言えば、日本人はどういうわけで「声」として伝わるのでしょうか?
本日は、そちらの謎を紹介させて頂きます!
日本語が作りあげる脳。
東京医科歯科大学の角田教授がキューバの際学会に出席した時の事。
教授は会場に覆いかぶさる強烈な「虫の音」に気をとられていたのです。
周りの人にどんな虫なのかと聞いてみることにしました・・・そうすると、、、「何も聞こえない」と私を除いて、誰もがみんなそのように言うのです。
教授からすれば「蝉しぐれ」みたいに聞き取れるというのに!
学会後、キューバ人の若い男女二人と共に帰宅しました。
教授が虫の鳴く草むらを指して示しても二人からすれば、なにひとつ聞き取れないとのことです。
二人は不思議そうに顔を見合わせたとのことです。
左脳と右脳
角田教授は日本人の脳と外国の脳の違いを検証してまいりました。
すると、虫の音をどの脳で聴くか違いが見つけ出したのです。
西洋人は虫の音を「雑音」と一緒に音楽脳で処理していました。
一方で、日本人は言語脳で認識していたようです。
日本人は虫の音を「虫の声」ということで聞いていたわけです。
キューバ人からすれば、虫の音は雑音であって、慣れてしまうと意識しなくなってしまいます。
私たち日本人におきましても慣れてしまいますと電車が通っても意識しなくなるのと一緒の現象だと言えます。
この特徴は、世界でも日本人とポリネシア人だけになります。
更に興味深いことに・・・日本人でも外国語を母国語という形で育てられると西洋型になって外国人でも日本語を母国語という形で育つと日本人型になるのです。
虫の音に聴き入る文化
日本においては、虫の音に聴き入る文化があると言えます。
「虫の声」とされる童謡からも子どもだった頃から親しまれています。
あれ松虫が鳴いている チンチロ チンチロ チンチロリン
あれ鈴虫も泣き出した リン リン リン リン リーン リン
秋の夜長を鳴きとおす ああ おもしろい 虫の声
こういう伝統は古代に及ぶ迄遡ります。
夕月夜心もしのに白露の置くこの庭にこおろぎ鳴くも
近世では、明治天皇の御製が心に残ります。
ひとりしてしづかにきけば聞くままに しげくなりゆくむしのこゑかな
一人静かに耳を傾けると虫の声がより一層繁く聞こえてくる。
いかにも精巧にできた心理描写です。
もう一つ明治天皇の御歌を引いておきます。
虫声
さまざまの虫のこゑにもしられけり生きとし生けるものの思ひは松虫や鈴虫など、さまざまな虫がさまざまな声で鳴いています。
人も虫もともに「生きとし生けるもの」として等しく「声」や「思い」を持つという日本人の自然観がうかがわれます。
「虫の音も人の声と同様に言語脳で聞く」という日本人の特性はこの文化に見事に照応しています。
犬は「ワンワン」猫は「ニャーニャー」
日本人は言語脳で聞いてるのは、虫の音だけに限りません。
これ以外の動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川のせせらぎまで言語脳で聞いていました。
山や川や海まで、様々な自然物に神が宿り、人はその一員他ないといった古来からの自然観に当てはまります。
違うがゆえに独創性のあるものが生まれる。
日本語においての脳が異なるところというのは、私たちにいかなる意味を持つというのでしょうか?
(西欧人が)論理的であるのに対し、日本人は情緒的なのであるという点に違いがありました。
違うがゆえに独創性のあるものが生じるのです。
「違うがゆえに独創性のあるものが生じてくる」というのはノーベル賞を受賞した湯川博士の言葉だけに重みがあるのです。
こういった「生きとし生けるもの」の「声」に意識を集中させるという自然に対しての敬虔(けいけん)な姿勢。
これというのは、ありとあらゆる生命と共生していくために、貴重な示唆を与えうるのです。
夏にセミが鳴いても、雨の日にカエルが鳴いても秋の夜長に虫の声がしたとしてもまったく雑音に聞こえません。
日本人とし生まれてどういうわけか得した気分になります。
自然の音が心地良く感じられることは情緒があって綺麗なような気がしますよね。
いま思うと、音を言葉とし書き溜めることができるというのはこのような事なのですね。