明智光秀はなぜ信長を裏切ったのか!?

明智光秀

織田信長を「本能寺の変(謀反)」を起こし、死に追いやった、逆臣・明智光秀。

日本の歴史上特にみんな知っている裏切りというのは、何であるかと考慮した瞬間、「明智光秀」の招いた「本能寺の変」を思い浮かべる人というのは多いのではないかと思います。

そういうわけで本日は、主君に謀反を起こし、裏切り者としまして、現在に至るまで名を残す明智光秀の人物像を含め、どんな人だったのか?なぜ、本能寺の変(謀反)を起こさなければならなかったのかを詳細に紹介したいと思います!
 

明智光秀

 
驚きですが、明智光秀は生まれた年月日や父親が誰なのか、幼少期~青年期をどのように暮らしていたかなどが分かっていないのです。

そういうわけでよく知っている事を調査してみたのですが、明智家は清和源氏の土岐氏の支流だと言われていて、光秀の代まで現代の岐阜県可児市に位置する明智城が居城であったと言われています。

そういう謎多き光秀の歴史ですが、彼の一生涯をさっそく覗いてみようと思います。

その当時、光秀は斎藤道三に仕えていたのですが、弘治2年(1556)に道三とその息子の義龍が争った際には、道三に味方したことによって明智城は義龍の軍勢に襲撃されて、それ以降、光秀は仕官先を捜し求めて各地域を周ることになっていました。

その後、あるとき、光秀はその鉄砲の技能を評価を得て越前の朝倉義景に仕える事になりました。

話はちょっとだけ光秀からズレますが、永禄8年に13代将軍の足利義輝が暗殺されると、義輝の弟とされる義昭が朝倉義景を頼り奈良を逃避します。

それから後に、朝倉義景のところに移った義昭は光秀の働きかけにより信長を頼り尾張へ移っていきますが、その時に光秀は細川藤孝と知り合い、仲良くなったようです。

そうして信長は義昭を擁立し上洛、義昭は15代将軍になったわけですが、信長と義昭の関係というのは悪化してしまい、双方は幾度かの戦いと講和の後、義昭は京の都から追放が行われ、室町幕府は終焉になるはめになったのです。

こういう出来事の中におきまして光秀は信長の家臣になったそうです。

ですが姉川の戦いにおいては朝倉義景浅井長政が討たれますが、朝倉は光秀にとっての恩人です。

この際、光秀はどういうことを感じたのでしょうか。

それ以降も光秀は長篠の戦いや天王寺の戦い等に参入し、天正7年(1579)にかねてより命じられていました丹波国を細川藤孝から協力を得て平定したことにて、丹波29万石を与えられたのです。

元亀2年(1571)の比叡山焼き討ちの時に光秀にはもうすでに近江滋賀群の5万石が得られていたこともあって、合計34万石が光秀の領地となりました。

ですが天正9年(1581)に信長の側室だという光秀の妹「御ツマキ」が亡くなられたことによって、光秀は信長からの寵愛をなくしてしまったと言われています。

次の年だという天正10年(1582)6月、毛利征伐に赴いていた秀吉を補佐することにより光秀は出陣しますが、なんと向かった先というのは信長の滞在中の本能寺でした。

13000人の兵士で本能寺を襲撃して、信長を自害においやりました。

現在でもその真意は謎に包まれているのですが、これこそが日本の歴史を大きく変えたという「本能寺の変」となります。

本能寺の変の後、光秀は懇意とされていた細川藤孝その息子の忠興を味方にしようと敢行しましたが、藤孝は髷を落として信長の死を弔い、忠興は嫁の珠子(のちのガラシャ)が光秀の娘だったことから幽閉して対処したのです。

2人の協力を獲得できないさなかに、光秀は中国地方から戻ってきた秀吉と戦となります。

それこそが山崎の戦いと称されています。

兵力差によって敗れてしまった光秀は近江の坂本城に落ち延びようとするのですが、道中、落武者狩りに遭遇し、深キズを負わされたことが要因となって、家臣に介錯をさせてこの世を去ったというわけです。

6月13日のことであると言われています。
 

謎に包まれた「明智光秀」の素顔

 
光秀には煕子(ひろこ)という名の正室がいたのですが、婚約期間の途中に煕子が疱瘡に掛かってしまい、痘痕が残存してしまいました。

これを恥じて縮減には煕子の妹が代わりに差し出されたのですが光秀はこれを見破って、改めて煕子との祝言をあげたと言われています。

ものすごい愛妻家で、煕子も光秀に十分に尽くし光秀が仕官先を探し求めていた間、彼女は自分の黒髪を売って暮らしをサポートしていたようです。

更に光秀は教養深く文化人で、連歌会を催したことだってあるのだとか。

戦で怪我をした兵に見舞い状を出したりと、配慮が行き届いた人物でもあったそうです。

ですが、それだけではなく光秀は策略の達人とされていて、独裁的で裏切りを好きこのんでいたという評価もあるそうです。

なお、比叡山延暦寺の焼き討ちを信長がほのめかした際に光秀は信長をいさめたとのことですが、なんと光秀は焼き討ちの中心人物なのです。

この焼き討ちで延暦寺側については約3000名の老若男女が亡くなられているのです。

こういったようにやむなく命令をやり遂げる忠誠心の強い一面もあり、そうじゃない独裁的な一面も見えかくれしているということより、いずれにせよ光秀は謎がたくさん、素顔が見えない人物だった事は間違いないと思います。
 

光秀はなぜ本能寺の変(謀反)起こしたのか?

 
続いて、ここまでで気になるのではないでしょうか。

それについては「なぜ光秀は信長に謀反を起こしたのか?」について。

これに関しては現在では、いくつもの仮設が存在しているのでその3つを紹介したいと思います。
 

明智光秀はなぜ信長を裏切ったのか!?①:怨恨説

 
安土城で徳川家康を接遇する役を信長から任せてもらった光秀ではありますが、接遇向けに作った食事に至らぬ点が見つかったことにより信長にきつく叱責が行われ、解任されてしまったようです。

至らむ点というのは「腐った魚」が出た事であると考えられていますが、なんとそれは「鮒ずし」であったというような説もあって、まさにそれがほんとだったら、光秀は言いがかりで解任されていたという実態にはならないでしょうか。

さらには、武田征伐で甲斐の武田氏を滅ぼした戦勝祝いの席で光秀が「わたしも骨を折ったかいがありました。」と言ったところ、信長に「お前が何をやったのか?」叱責された上で、光秀を始めとする多数の家臣がいた場所で暴力を振るわれたのであるとか。

それからあるとき、光秀は敵地である毛利氏の領地を戦い占領して自分の領地にせよと信長に命じられたのです。

ですが、そこに至るまでの、光秀の領地であった近江坂本等がはく奪される事となったのです。

光秀からすれば悪夢のような命令なのではないかと考えるはずです。

このことが、怨恨によって信長を本能寺の変(謀反)に至ったという説となります。
 

明智光秀はなぜ信長を裏切ったのか!?②:四国説

 
信長の指示に従って、光秀は四国の長宗我部元親と信長の関係を良好に保とうと仲介しておりました。

ですが、信長は四国の征伐を突如として決断します。

光秀の重臣とされる斎藤利三の妹元親の正室において嫁がせていたこともあって、光秀の面子というのは潰されてしまうわけです。

光秀はどうにかして四国に向けての出兵をやめさせたくて、決起したためではないかとする説になります。
 

明智光秀はなぜ信長を裏切ったのか!?③:野望説

 
光秀にも天下を手に入れたいというような野望があって、そのことから信長を討ったに違いないというような説があるのです。

どうしてかと言いますと、本能寺の変を引き起こす前に催した連歌会で光秀が「時は今 雨が下しる 五月かな」と詠んだという事を根拠になっているもので、この句の意味を「土岐は今 天が下知る 五月かな」と推察するものになります。

土岐氏の支流とされる光秀が天下を制す事を意志を固めた内容と指摘されています。

ですが信長が討たれたというのは6月、更に討った後に細川親子へ送った書状の中で「自分の息子や忠興を取り立ててやるため」に信長を討ったのであるとするなど、野望を持っていたというようには物足りなさを感じてしまいます。

この他にもいろいろな説があるのですが、比較的に皆が知るこういった3つの説からすると、どれか1つの説が正しいのとは違い、光秀が本能寺の変を起こした原因は「信長からの振舞いに耐えきれなくなっていた時に長宗我部氏と部下への面子を潰されてしまうというような出来事が発生した。なので四国出兵前に信長を討った」、そして野望説にするのであれば、多少強引ですが「土岐氏の支流の血は息子や忠興に嫁いだ珠子にも流れている。自分に気概がなくとも息子や忠興にそれをして欲しかった。」

というような複合的な理由であるのかもと考えてしまいます!
 

「明智光秀」はなんと!生き延びていた?

 
話は変わりますが、そういう光秀ではありますが、落武者狩りにあったというのは別人でなんと本人こと「明智光秀」は生き延びていたのではとと言われています。

さすがに「明智光秀」としては生きるというのは適わなかったことから別人として生きたと考えられます。

これについては徳川家康の参謀役となっていた僧侶・天海です。

天海こそが山崎の戦いで生き延びた明智光秀だったのではと言われているのです。

  • 光秀と一緒で幼~青年期が判っていません。
  • 日光東照宮に「明智平」とされる地名があって、これというのは天海が名を付けたとされています。
  • 春日局に「お久しぶりです」というような挨拶をした。

等が根拠であると指摘されています。

春日局に「お久しぶりです。」とお辞儀をした点は2人が初めてお会いした時であったそうですが、どうして「お久しぶり」なんでしょうか。

まさに春日局の父というのは光秀の重臣・斎藤利三なのです。

天海が光秀であるならば、初対面ではないだろうということも理解できます。

さらに、光秀が生存していた裏付けとしまして、有名なのが比叡山の石灯籠です。

どうしてかと言うと1615年に寄付されたものなのですが、びっくりすることに寄付した者の名称が「光秀」となっています。

1615年だとすれば大坂の役が起きた年。

生き延びた光秀は天海になって家康を補佐し、更には大坂の役では豊臣家の滅亡を願って、これを寄付したためではないかと考えます。

これまでをまとめると

  • 光秀は清和源氏の土岐氏の支流と指摘されていますが幼~青年期というのは謎。
  • 斎藤道三、朝倉義景、織田信長に仕えた。
  • いろいろな戦さに参加、比叡山延暦寺の焼き討ちにおいては中心人物とし大活躍した。
  • 毛利征伐の補佐に出向くところで転身して信長がいる本能寺を襲撃した。
  • その後に、中国地方から戻ってきた秀吉に山崎の戦いで敗れ死亡する。
  • 本能寺の変をひき起こしてしまった原因はいろいろな説存在する。
  • 落ち延び、天海となって生息したという説も存在する。

このようにして調べると厳しい人生を送った人だということが分かりますね。

不明確、不明瞭な謎多き逆臣・明智光秀。

明智光秀が信長を討つ事になった理由や天海となって生き延びたという説の真偽が判明する日がきっといつか、くるかもしれません。