パラドックスとは!?

パラドックスのイメージ

今日は、「パラドックス」とはどんな意味なのか分かりやすく説明します!

「パラドックス」といった言葉というのは、一度くらいは聞いたことがあるのではないかと思います。

パラドックスっていうのは何だろう?と思った人のために結論的に説明すると、「外からは、正しい前提」と「妥当な推論」をミックスした事で引き起こされる「理解しづらい結論」まさにそれがパラドックスになります。

パラドックスは数学、物理学、経済学、SF世界に伴う仮定についても、色々存在しています。

な~んか!難しくってパニックになってしまいそうですね・・。

そういうわけで!

本日は特に認識しやすい、そして有名なパラドックスにつきまして、ご紹介したいしようと思います。
 

親殺しのパラドックス

 
最初に、最も理解しやすいものをご紹介していこうと思います!

それはどんなのかと言うと、「親殺しのパラドックス」です。

何というか怖そうな題名なんですが、すごく面白い話となります!

親殺しのパラドックスというのは、「タイムトラベル」をテーマにしたパラドックスになります。

「タイムマシンで過去に逆戻りしてあなたが生まれる前に親を殺したら自分自身の存在というのは消えるどうか?もしも消えるとするなら、あなたが殺したといった事実はどうなるのか?」

こういう単純なテーマについては、SFの世界の中においても大きなテーマとして語られ、これと関連付けた映画や書物というのはいっぱいあります。

このパラドックスの本題となるというのは、「タイムトラベルによって過去の改変というのはできるのか?」ということであります。

率直に考えると、「親を殺したためあなた自身は誕生しない」ので、「あなたが親を殺したという事実も存在しない」。

ここまでは理解できますよね。

けれどもそういうことなら「親は生きている」から「自分が生まれる」し、「親を殺したといったケースも出てくる」のではないのでしょうか?

そんなふうに堂々巡りのパラドックスが出てきます。

このパラドックスは「過去に向かってのタイムトラベルが不可能」というような解釈に使用されることもあるでしょうが、反対に「過去に行ったとしても何があっても改変することができない」、すなわち「親を殺そうとしたところで必ず失敗に終わる」といった仮説や、「タイムトラベルにより異世界、すなわちパラレルワールドに行く」ため、「自分が生まれた歴史と生まれなかった歴史に分割する」等、色々な仮説が考えられ、それぞれのSF作品で使用されているのです。

「タイムトラベルそのものに影響は及ぼさない歴史改変については可能」という考え方であるのなら、IF歴史もののといったような大胆な物語が出来上がり、「タイムパラドックスが引き起こされると宇宙の全体か一部が消える」という考え方なら、パラドックスを防御する事がテーマになります。

更に、「過去の改変までがその過去に織り込み済みである」という立場においては、事件の真実にして「オチ」によく使用されます。

親殺しのパラドックスというのは、双子のパラドックスとは反対に現状では正解が全くはっきりしていないパラドックスであって、だからこそ人々の想像を掻き立てる興味を示す存在であると言えます。
 

全知全能のパラドックス

 
このパラドックスというのは「親殺しのパラドックス」のとおり、実現出来ない事象を扱う思考実験的なパラドックスとなります。

「全知全能の神は、自分が持ち上げられない石を作ることができるのでしょうか?」といった質問に代表されるような、「神は自らの全能性を制限して全能でなくなることができるのでしょうか?」という点がそのテーマとなります。

もしも、「全能性を制限できないならば『出来ないことがある』から全能ではありません」になってしまいますし、「全能性を制限できるならば『制限した後の存在は全能ではありません』」のであると、なにはともあれ矛盾が起こります。

これについては神学を含む哲学の世界に関して、すごく長期間にわたって探究され、論じられてきたパラドックスとなっていました。

ある哲学者はこれを「全能が存在しない」証明と考慮し、または全能のルールを問い掛ける哲学者も存在しました。

神学の中においても「真に全能の存在ならば自分以外の存在を求めて世界を作る必要がないはずだ」といった考察というのも、出たのですが、これはユダヤ教やキリスト教、イスラームというような「アブラハムの宗教」に伴う神の概念に関しての、「全治・全能・全善」といった考え方を認めない事となって、イスラーム哲学からこのパラドックスが伝えられたヨーロッパにおいては、パリ大学で神学を勉強していた人々が激しい議論の果てに、6年間ものストライキをやる程の「波乱」を引き起こしたのです。

より一層、このパラドックスは科学の進化とともに別の問題をあわせ持ったものにもなったのです。

例えて言うなら、「石を持ち上げる」をいかに定義を行うのか、それは世界を平面と考える「天動説」に基づけばシンプルなものなのですが、「地動説」の宇宙感が元になるのであれば、宇宙の中にあるどこをベースとして「持ち上げる」と定義を行うのがいいのか、困難な問題となるのです。

地球上にある石というのは、太陽からすれば常に「持ち上がっている」ということかもしれません。

当然、それはこのパラドックスの本題とは関係ないため、問題文のポイントを整理すればよいだけですが、裏を返せば、全能でなかったらあり得ない「不可能」が何かしらの条件でありえる「可能」となって、科学の進歩や発見の凄さを感じさせる事だったりします。

余談ですが、ある映画ではこのパラドックスを、「神はブリトーを自分自身が食べることができないくらいの熱さに温める事ができrのか?」と表現したらしく、現実にはそれは科学的なルールとして影響されない驚異的ながらコミカルな表記というものになります。
 

倹約のパラドックス

 
倹約のパラドックスというのは、過去、ご紹介したものとは少々違い、実際に起きる事象を取り扱った経済学のパラドックスとなります。

例えるなら、1つの家庭で倹約を行ない、消費を少なくする事で、貯金額はアップします。

ですが、日本の「ありとあらゆる家庭がいっぺんに出費を少なくした」場合、日本の経済活動そのものが激減して、景気が悪化する事となり、給与を主力とする家庭の収入額も少なくなってしまって貯金は増えないことも考えられます。

そのように1つの家庭といった「ミクロの世界」で成立する法則というのは、日本の経済というような「マクロの世界」だったら。成り立たないかもしれない、まさにそれが「倹約のパラドックス」になります。

日本国内であったならば、企業が一斉に借金返済を重視したことが要因となり、設備投資等が少なくなって、景気の悪化をもたらして起こった不況や、それより前の江戸時代、外国との交易が制約されていましたので、支出の節減が単なる経済活動の縮減に結びついてしまうなど、もっと言うなら、世界を1つのマクロ経済圏と言うならば、世界恐慌の直後に自国内での需要を取られないよう貿易を規制したことによって、むしろ不景気が長引いてしまうはめになってしまったり、このパラドックスは経済を話すうえで、なくてはならないテーマとなります。

当然、事実上の経済を考察する場合でも、気を付けるべき大切なポイントであって、近年提案されている、パラドックスにおいては、こういったように、現実の社会においての現象を取り扱ったものがかなりあります。
 

常識をひっくり返してみよう!

 
パラドックスには「思考実験的なもの」「現実の減少にフィットするもの」がありますけど、いずれも「一見ありえそうな回答」以外の結果を生じさせます。

これらはあるものの社会の仕組みに関する理解を深め、全ては作家たちのイマジネーションを活性化させて、たくさんの作品を産んだのです。

常識であると思っているものをくるっとひっくり返してみる、そのきっかけとしてパラドックスに関して考察してみる事は、役立つことも考えられますし、役に立たなかったとしても、おそらく、多分に面白いことなのではないかと思います!